街中を歩いているとき、ふと立ち止まって見てしまうものがある。それは、手を使って話している人々だ。その仕草は「手話」と呼ばれている。「手話」は目で見えるので、どういう話をしているのだろうか?私の知っている人なのだろうか?と興味津々になって、つい見てしまうのだ。なぜなら、私自身も小さいころから当たり前のように使っているからだ。そこで、大学に入るまで、そもそも「手話」とは何なのか?私にとっての「手話」とは何だろうか?と深く考えたことがなかったので、この徒然日記にて私なりの「手話」について述べたい。
まず、「手話」とは何なのかについて着目したい。ブリタニカ国際大百科事典では、手の位置、手の形、手の動きなどを組み合わせて意味を伝える表意記号で、おもに聾者が用いるコミュニケーション手段の一つと書かれている。百科事典マイペディアでは、聾者のコミュニケーションに使用されている,身ぶりを中心とした視覚的・動作的言語と書かれている。デジタル大辞泉では、主として耳や口の不自由な人が手を使ってする話と書かれている。このように、「手話」について様々な解説があるが、私が一番しっくり来たのは、デジタル大辞泉である。なぜなら、主としてと口の不自由な人の2語が重要なキーワードだと思ったからだ。「手話」は、聾者だけが使うものではなく、聴者や言語障害者など様々な人も普通に使っているので、主としてと口の不自由な人というキーワードが適切だと私は思った。他にも「手話」とは?について、論じたいことはあるが、ここで区切りたいと思う。
次に、私にとっての「手話」とは何なのかについて述べたい。耳が聞こえない私にとって、「手話」は自分の存在意義を確認できる安心の場だと思っている。「手話」は視覚的情報を多く与えるので、先生の話であったり、友達との会話であったり等、様々な情報をスムーズに得ることができる。何より、大学に入ってから、友達と「手話」で様々な議論をすることは自分にとっても、相手にとっても、様々な考え方を知ることができ、お互いにとって良い刺激となった。そういう場を提供してくれた近畿ろう
学生懇談会(略称:近コン)は、自分にとって大きな成長を与えてくれた。様々な個性を持った人が「手話」で様々なテーマについて議論しあう景色は、何とも言えないほど最高だ。この場を借りて、感謝を申し上げたい。
最後に、私にとっての理想的な「手話」について語って終わりたい。おはよう、お疲れ様、ありがとうといった簡単な「手話」でも良いので、聴者・聾者関係なく「手話」でありふれた社会になることを望んでいる。
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